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景教と弘法大師空海  

 

  青空文庫 桑原隲蔵著 大師の入唐 より
  [(六)長安に於ける大師]
  に景浄や大秦寺について詳しく紹介されています。  その部分だけを抜粋してみました

 

 遣唐大使が所定の任務を果して、翌年の順宗の永貞元年、即ち我が延暦二十四年(西暦八〇五)の二月十日に長安を出發して、歸朝の途に就くと、その日から大師は公館を辭して、西明寺に引越をされた。(中略)

 この西明寺は西市に近い。長安には東市と西市とあるが、西市の方が盛大で、外國商人は多くここに來集した。囘※商人と共に、マニ教徒も多くこの西市に往來した樣である。ペルシアや大食の商賈も、尠からずこの西市に出入して居る。又西明寺附近には、景教の寺院や※教の寺院も存在するから、
研究心の深く、知識慾の盛な大師は、西明寺滯在中に、定めし此等の異教徒又は彼等の寺院に對して、相當の注意を拂はれたことと想ふ。二月から六月まで約四ヶ月間、大師は西明寺に滯在しつつ城内の名刹を訪ひ、大徳を叩いて請益されたことは、その「上二新請來經等目録一表」に、周二游諸寺一、訪二擇師依一といへる通りである。(中略)
 その六月に大師は青龍寺の惠果阿闍梨に晉謁して、遂に同阿闍梨より、眞言宗を傳授さるることとなつた。青龍寺は西明寺とは反對に、左街の東邊の新昌坊の南門の東に在つた。
(中略)

大師の入唐中第一に恩顧を受けたのは、上述の惠果阿闍梨であるが、之と共に今一人の般若三藏を見逃がしてはならぬ。大師自身も、その「與二本國使一請二共歸一啓」に 
著二草履一歴二城中一、幸遇二中天竺國般若三藏、及供奉惠果大阿闍梨一、膝歩接足、仰二彼甘露一(『性靈集』卷五)。

と明言されて居る。この般若三藏の住する醴泉寺は、右街の醴泉坊に在つた。我が慈覺大師もこの寺の宗穎に就いて教を請はれたことがある。

 般若三藏は北印度迦畢試(カピサ)の人で――『性靈集』に、中天竺國般若三藏とあるのは、想ふに、この三藏が主として中天竺で修業した故であらう。
『宋高僧傳』の卷二に、迦畢試の智慧を收め、卷三に※賓の般若を收めてあるが、之は何れも同一の般若三藏を指したものかと疑はれる――天竺を歴游した後ち、海路から廣州に來り、徳宗の建中三四年(西暦七八二―七八三)の頃に長安に到着した。
長安で偶然その近親の羅好心――羅好心の父は般若三藏の母の同胞で、羅好心と般若三藏とは表兄弟(ははかたのいとこ)である――とて、印度から支那に來り仕へて、近衞の將軍に出身して居る者に邂逅して、その家に厄介になつて居る間に、
大秦寺といふネストル教の寺の僧景淨と協力して、胡本六波羅密〔多〕經を漢譯した

胡本とは榊博士の講演にも申述べられてある如く、恐らく中央アジアのソグド語の佛典を指すのであらう。ソグド語とは西暦九世紀の頃まで、廣く中央アジア一帶に行はれたイラン語系の言葉で、その文字はシリア文字と略同樣で、横書ながら梵語とは反對に、右から左へ書くのである。
漢譯佛典の原本に梵・胡の區別がある。胡とはソグド語に限つた譯ではないが、ソグド語も胡語の中に攝收されて居る。

支那の記録に據つても、又イスラム教徒の記録を見ても、中央アジア一帶の地に、古く佛教が流行して居つた。
爾後マニ教やゾロアスター教や、最後にイスラム教が侵入するに從ひ、佛教の勢力は次第に衰退したけれど、西暦八世紀の半頃、即ちほぼ般若三藏の時代までは、細々ながらその法運を維持して居つた。さればこそ中央アジア地方に行はれた、ソグド語の佛典も存する譯である。

 併し般若三藏が景淨と共譯した、最初の六波羅密多經は、種々の點に於て不完全であつた。第一般若三藏は佛教に達すれども、胡語・唐語(支那語)を知らず、景淨は胡語を知れども、佛教に達して居らぬから、この二人が協力しても、到底完全なる翻譯が出來る筈がない。
かくして般若三藏は貞元四年(西暦七八八)に、新に梵本から六波羅密多經を譯した。これが今日に傳はる所の『
大乘理趣六波羅密〔多〕經』である。
元來この般若三藏は日本へも渡航布教の志を懷いて居つた人故、大師に對して特別の眷顧を垂れ、その
譯出した『新譯華嚴經』『大乘理趣六波羅密〔多〕經』等を始め、梵夾三口を授けた次第は、『御請來目録』に載せられて居る。

 この般若三藏の相手となつた大秦寺の僧景淨といふは、徳宗の建中二年(西暦七八一)に建設された、かの有名な大秦景教流行中國碑文を撰述した人である。景淨の本名をアダム(Adam)といふ

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