top of page

高野山の伝説(8)宝剣を掘り出す事(其の二)



★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

高野山伽藍ばなしシリーズ;8

   大塔を建てんとて地を掘るに、一の宝剣を掘り出す事(其の二)

 高野山の伽藍開拓の際に、地面から宝剣や経軸等が出て来た、という話は其の一で書きましたが、この話に付随してさらに以下の様な話があります。

   弘仁十年、嵯峨天皇の叡願と大師の誓念と聲谷相響いて三鈷點着の勝地と撰定し、大塔を建立せんと地形を芟夷開墾したまうトキ地中より一の宝剣(宝剣長さ五尺広さ一寸八分)と経軸及び輪壷との三種を掘り出せり。大師即ち前仏説法の浄土、久遠巳来の霊場なりと信知したまい、経軸とは転軸山(奥院坤方)に納め、輪壷宝剣の三(ママ)種は元の如く蔵して其の傍らに大師重ねて鎮壇作法して大塔を創立したまう。
   宝剣の銘に曰く。
   釈迦如来説法地 迦葉仏成道処

 この文は、明治十五年(1882)に出された『根本大塔畧縁起』の中の一文です。
地面から宝剣・経軸・輪壷という三種の法具が出てきた、というのは時代が下るにつれて定着してくる説です。また、古い文献には「前仏の舊基」とだけある記載が、「釈迦如来説法の地」となって定着してきます。つまり、真言密教の選ばれた聖地、という発想から、釈迦如来が高野山に於いて説法をした、つまりは日本仏教の中心であるという説にまで発展しています(この件については後述)。
 三種の宝具が出たことが、なぜ釈迦如来ゆかりの地である事になるのか、というのは、例えば『高野山順禮記』(弘長三年(1263))には、
   宝剣は釈迦菩薩の本尊なり。経は同菩薩の持経なり。
とあり、また『紀伊続風土記』(明治四十四年(1911))には、道範阿闍梨の説として、

地を掘るとき、輪壷鍬に障りて出ぬ。時に明神告げて曰く。此は是釈迦如来鎮壇の舊跡なり。故に其の輪壷出現すと。則ち舊の如く此を埋み、其の傍らに大師重ねて鎮壇し玉ふ。
とあります。これらの様々な説が合わさって、三種の宝具、そして釈迦如来ゆかりの地、という説が出来上がったのだろうと思われます。
 ただ、宝剣の銘「釈迦如来説法地 迦葉仏成道処」という一文は、『紀伊続風土記』にも注釈されていますが、『野山名霊集』(宝暦二年(1752))に出て来るまでは、どの書物にも見られない物で、「時代と共に伝説も変化する物なのだなあ」と思わずにはいられません。
 さて、お大師様、真言密教、そして高野山、ひいては仏教そのものまで、高野山を中心とする選ばれた宗教である、と論破(?)した文献があります。それを二つほど挙げてみようと思います。少々引用が長くなりますが、面白いのでぜひ読んでみて下
さい。
 一つは、『南山秘記』(寛喜二年(1230))
   又釈尊云わく。大日本国とは大日の本国なり。胎蔵界会をは日本国とす。所以に大日経は高野山の事を説くと云う。 秘記 月氏国は釈尊霊鷲なり。金剛界会を鷲峯山となす。是れ深秘なり。―――略―――去るは我昔釈迦菩薩と名づけし時、行所の壇上に十六丈の重閣講堂あり。大塔の跡是なり。
 この文には、「大日本国=大日の本国」として(な、なんて安直な…)、金胎を霊鷲山と日本(高野山)とに振り分け、大日経が高野山の事を説いている、と、まさに高野山が密教の聖地である事を強調しています。
 もう一つは『野山名霊集』。
   問。今の銘文(註;釈迦如来説法地 迦葉仏成道所)の如く、迦葉仏此の山におゐて成仏し給ひ、釈尊も亦当山に於いて説法し玉ふといはば、地神のときより我が朝に仏法ありといふべきか。甚だ国史の説に違いするにあらずや。答。理として仏法あるべき事勿論なり。しかれ共太古の事は具なる記文なければ、分明の證拠を挙げがたし。―――(播磨国に  阿育王(アショカ王)の石塔があった、との説を挙げ)―――地神のはじめに迦葉仏当山に成道し給ふという事も強(あなが)ちに疑うべからず。国史に欽明の御宇を仏法のはじめとするは唯是枝末の縁起なるのミ、然も実にハ我国本有の仏法なり。自宝をわすれて他の宝とする事なかれ。
と、実は仏教は日本古来の宗教である、という説にまで発展しています。ここまで来ると、見事と言うほかありませんね。
 まあ、これらの文献はちょっと行き過ぎでしょうが、高野山が、お大師様が拓かれ
た修行の道場、真言密教の聖地である事は確かなのです。

Copyright © Q-Pine. All Rights Reserved.

bottom of page