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高野山の伝説(6)続・三鈷の松(飛行三鈷の事)


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高野山伽藍ばなしシリーズ;6

続・三鈷の松の事(飛行三鈷の事)

 以前、三鈷の松について少し述べさせて頂きましたが、こんな話もありますので、紹介してみたいと思います。
 お大師様が明州の浜から投げた三鈷は、現在大塔の建っている地面に落ちたのを、丹生明神がそれを拾い上げて、傍らにあった松の木の枝に懸けた、というのです。この話は、室町時代前期あたりに書かれた『日域諸寺私記并諸社』という書物の中にみられ、その中では、「左大臣頼長が、奥高野山を参詣された折、奥の院の林賢阿闍梨が、内密にこの話をお話下されたもの」である、としています。

 ところで、それでは唐の明州の浜から飛来した三鈷杵はどうなったか、と
いいますと、『高野山秘記』(明徳四年(1393))に、
 「故彼三古、中尊大日御祖木御頭之中安置也」
とあり、大塔本尊の中尊大日如来の頭の中に納めた、とあります。
 このことは、『南山秘口』『高野山縁起』にも同様の記事が認められます。
『南山秘口』ではさらに、この三鈷の複製品を造り、それを法勝寺の五仏中尊の頭の中に納めた、としています。

 別説としては、『南山要集』に、「三鈷令埋給所事」として、
A「同云。覚成法印曰。大塔之後山令埋之給。仍彼山號三鈷峯云々」
このように、三鈷杵を大塔の後ろの山に埋め、そこを三鈷の峯と呼んだ、としています。
また、『高野山順禮記』にも、
B「三古ハ御影堂ノ前ノ松ナリ。御社山ニウヅマル。件山ハ在口伝。ソノ山ハ三古峯ト云。宗長者知人三古峯ト云」
として、三鈷を山に埋めて、そこを三鈷の峯と呼んだ、としています。
 ただ、『高野山順禮記』には、
C「改安置所ハ大塔□皆正北有高岡。件岳頂所被埋置也」
などとあり、同じ書物でも埋めた場所が違ってきます。
AとCは大塔の北、Bは西。またAとBは三鈷の峯と呼ぶが、Cではなにも触れていない。
などなど、どうにも記述が一定していないので、今いちこの説はアテになりません。

 では実際には三鈷杵はどうなったのかというと、仁海記の『飛行三鈷記』に、
「件杵大師授真然。真然安置金剛峯寺中院。中院別当定観授大法師雅真。雅
真授仁海。仁海入三衣筥奉持及六十餘年」
とあるように、弘法大師から真然へ、真然から定観へ、定観から雅真へ、雅
真から仁海へ、それぞれ授けられて、金剛峯寺において保管されていたよう
です。
 その飛行三鈷は、寛治二年(1088)に白河上皇が行幸の際に高野山から持ち出され、一時鳥羽の宝蔵に納められていましたが、建長五年(1253)、後鳥羽天皇の皇后であった修明門院の命により、再び高野山に返納され、御影堂に納められました。
 その後は、寛正二年(1461)に足利義政が拝見し、永正十七年(1520)の金堂屋根替落慶、天正十五年(1587)の金堂落慶、慶長二年(1597)の大塔修理落慶、寛永十一年(1634)の高祖八百年忌法会などで、たびたび僧俗の目に触れています。

 そして現在でも、飛行三鈷杵は封印されて、御影堂内々陣に大事に保管さ
れています。

 伝説の物品が、今でも宝物として保管されている、というのは、何ともロマンを感じさせるではありませんか。

「中国から日本まで三鈷杵が飛ぶなんて、そんなバカな」
などと言わずに、伝説のおもしろさと、そのような伝説を生むだけの徳を持ったお大師様の偉大さを胸に、お参りをするのもなかなかオツではないか、と思います。

                        dnet0082 李 書文

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